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Regarding Mass Registration at St. Ignatius Church from August 2020

Due to the continuous increase in the number of coronavirus infections in Tokyo, Archbishop Kikuchi has sent new directives this month of August. He shows great concern that no positive cases will come out from church communities.

Only those who have registered online will be admitted. From now on “walk-ins” will not be admitted.

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主よ、嵐の中にわたしたちを見捨てないでください」教皇による黙想

主よ、嵐の中にわたしたちを見捨てないでください」教皇による黙想
教皇フランシスコは、パンデミックの収束を祈ると共に、怖れから解放し希望を与える信仰の力を強調された。

 

教皇フランシスコは、3月27日(金)夕、バチカンでパンデミックの収束を祈り、聖体降福式をもってローマと世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」を与えられた。
この祈りにおいて教皇は、朗読されたマルコ福音書(4,35-41)から、イエスが突風を静めるエピソードを、以下のように黙想された。
**********

「その日の夕方になって」(マルコ4,35)、わたしたちが耳を傾けた福音はこのように始まります。この数週間は夕闇が降りてきたかのようです。深い闇がわたしたちの広場や道や町に満ちていきました。闇はわたしたちの生活を奪い、すべてを沈黙と虚無で覆いました。闇はそれが触れるすべてのものを麻痺させました。空気が、人々の態度や眼差しが、それを語っています。わたしたちは怖れ、おびえています。福音書のエピソードにある、突然の激しい突風に襲われた時のイエスの弟子たちのように。わたしたちは皆、同じ船に乗り合わせているということに気づきました。皆、弱く混乱し、しかし同時に、一人ひとりが大切でかけがえのない存在であり、皆が一つになるよう招かれ、互いの慰めを必要としています。この船の上に…わたしたちは皆一緒にいるのです。「わたしたちは溺れそうです」(参照:同4,38)と不安の中で声を合わせるあの弟子たちのように、わたしたちも、一人ひとりがもう勝手にふるまうことはできず、皆が一つになってこそ乗り越えられると気づいています。


この福音のエピソードに自分たちを重ねることは簡単です。しかし、難しいのはイエスの態度を理解することです。弟子たちが嵐の中で、当然のことながら、おびえ絶望している時、イエスは今にも沈みそうな船のへさきで、騒ぎにも関わらず、御父に信頼して眠っておられました。イエスが眠っておられるのを福音書の中で見るのはこの時だけです。イエスは起き上がって、風と水を静めた後、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(同4,40)と弟子たちに向かって言われました。


イエスが持つ信頼とは対照的な、弟子たちの信仰の欠如は何によるものでしょうか。弟子たちはイエスに対する信頼を捨てたわけではありません。それゆえ、彼らはイエスに訴えます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。「かまわないのですか」という言葉に見られるように、弟子たちはイエスが彼らに対し無関心で、彼らを放置していると思っています。わたしたちの家庭において、一番つらいことの一つは、「あなたにとって、わたしのことなど、どうでもいいのだ」という言葉を聞くことです。これは心を傷つけ、動揺させる言葉です。この言葉はイエスにとっても心を動かすものだったでしょう。なぜならば、イエスほどわたしたちを思ってくださる方はいないからです。実際、イエスはその言葉を聞き、落胆した弟子たちを救われました。


嵐は、わたしたちの弱さをあばき出し、わたしたちが計画的、習慣的に築き上げた安心は、偽物で表面的なものであったことを明るみに出します。わたしたちは眠り込み、社会や共同体を支え、力を与えていたものを、放棄してしまったことを悟らせます。嵐は、皆の魂をはぐくんでいたもの、わたしたちがしまい込み、忘れかけたものを発見させます。


嵐によって、わたしたちのエゴを隠し、自分の外面だけをつくろっていた、ステレオタイプの仮面ははずれました。そして、再び、兄弟としての所属、祝福された共通の所属を再発見しました。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主よ、あなたの言葉は、今夜わたしたちの胸を打ち、わたしたちすべてに向けられています。この世界、わたしたちが愛する以上にあなたが愛しておられるこの世界を、わたしたちは強く万能だという自信に満ちて、全力で駆けていました。利益を追求し、物事に没頭し、多忙の中で何も考えられなくなっていました。わたしたちはあなたの呼びかけに止まることも、戦争や世界的な不正義を前に目を覚ますことも、貧しい人の叫びや深く病んだ地球の声に耳を傾けることもありませんでした。病んだ世界の中で自分たちは常に病まずにいられると、無関心のまま突き進んでいきました。そして今、わたしたちは荒れた海にいて、あなたに哀願しています「主よ、目をお覚ましください」と。


「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主は、わたしたちに呼びかけます。それは信仰への呼びかけです。それは主をただ信じるだけでなく、主のもとに行き、主により頼めとの招きです。この四旬節、主の差し迫った呼びかけが響きます。「悔い改めよ」「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2,12)。主はこの試練の時を「選びの時」とするよう呼びかけます。それは、主の裁きの時ではなく、わたしたちの裁きの時です。何が重要で、何が過ぎ去るものか、必要なものとそうでないものを区別する時です。人生の指針を、主と、他の人々に向けて定めなおす時です。
わたしたちはこの旅において、怖れに対し、自らの命を捧げるという行為をもって反応した、多くの模範的な仲間たちを目にしました。その勇気ある寛大な献身は、人々の中で働く聖霊の力の注ぎによって形作られたものです。聖霊のいのちは、わたしたちの生活が普通の人々、普段は目立たない人々によって織りなされ、支えられていることを見せてくれます。こうした人たちは、新聞や雑誌のタイトルを飾ったり、目立つ舞台に立つことはなくとも、わたしたちの歴史上の重大な出来事を今刻んでいる人たちです。それは医師や、看護師、スーパーマーケットの職員、清掃員、介護職の人々、交通関係者、公安関係者、ボランティア、司祭、修道者、そして、自分の力だけでは救われないことを知っている他の多くの人々のことです。


この苦しみを前に、わたしたちは「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17,21)という、イエスの祭司的祈りを見出し、体験します。毎日どれだけ多くの人たちが、パニックを広めることなく、共同責任を自覚し、忍耐を示しながら、希望を皆に伝えっていることでしょう。どれだけ多くの両親や、祖父母、教師たちが、子どもたちに日常の小さな行為を通して、習慣を変え、眼差しを上げ、祈るよう招きながら、この危機に対応し、過ごす方法を教えていることでしょう。どれだけ多くの人々が、皆のために犠牲を捧げ、取りなしを祈っていることでしょう。祈りと沈黙の奉仕、それはわたしたちを勝利に導く武器です。


「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。信仰の一歩は、自分が救いを必要とする者であると知ることです。わたしたちは自分だけでは何もできません、一人では沈んでしまいます。星を見つめたいにしえの航海者のように、わたしたちは主を必要としています。イエスをわたしたちのいのちの船の中に招きましょう。わたしたちの怖れをイエスに託しましょう。イエスがそれを打ち負かしてくださるようにと。弟子たちのように、船の上のイエスと共に、わたしたちは遭難することはないでしょう。なぜなら、これは神の力、起きるすべてのこと、たとえ良くない出来事をも善へと変える、神の力だからです。イエスは、わたしたちの嵐を鎮めてくださいます。神と共にいるならば、いのちは死すことがないからです。


主は、この嵐のさなか、わたしたちに話しかけます。目覚め、連帯の精神と希望を持ち、連帯と支援を与え、すべてが挫折に見えるこの時に意味を見出すようにと呼びかけます。主はわたしたちの信仰を目覚めさせ、生かすために、復活されます。わたしたちには、錨(いかり)があります。十字架においてわたしたちは救われました。わたしたちには舵(かじ)があります。十字架においてわたしたちは贖われました。わたしたちには希望があります。十字架においてわたしたちは贖われました。わたしたちには希望があります。十字架においてわたしたちは再び癒され、抱擁されました。何ものも誰もわたしたちを贖い主の愛から引き離すことはできません。


愛情や出会いの欠如に苦しみ、多くの物の不足を経験しつつある、この隔離された生活の中で、わたしたちは再び救いのメッセージを聞きます。主は復活され、わたしたちの近くにおられます。主は十字架上からわたしたちに呼びかけます。未来に待つ生活を見出し、わたしたちを必要とする人々に向き直り、わたしたちが持つ恵みを知り、強め、活かすようにと招きます。「暗くなっていく灯心を消すことなく」(参照:イザヤ42,3)、希望の灯を再びともしましょう。


イエスの十字架を抱きしめることは、今の災難を抱きしめる勇気を得ることです。全能であろうとする喘ぎ、所有への焦りを捨て、聖霊だけが促すことのできる創造性に開くことです。それは、すべての人が新しい形の受け入れと兄弟愛と連帯に招かれていると感じられる社会を築く勇気を見出すことを意味します。
イエスの十字架においてわたしたちは救われました。それは希望を受け入れ、その希望によってわたしたちを守るための可能な限りの手段を強め支えるためでした。希望を抱きしめるために、主を抱きしめること。これが、怖れから解放し、希望を与える信仰の力です。


「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、聖ペトロの岩のごとき信仰を物語るこの場所から、今夜、わたしは、民の救いであり、嵐の海の星である聖母の取り次ぎをもって、すべての皆さまを主に託したいと思います。ローマと世界を抱きしめるこの広場から、慰めの抱擁としての神の祝福が皆さまの上に降りますように。
主よ、世界を祝福し、体に健康を、心に慰めを与えてください。わたしたちに恐れぬよう命じてください。しかし、わたしたちの信仰は弱く、わたしたちは慄いています。それでも、主よ、わたしたちを吹き荒れる嵐の中に見捨てないでください。「恐れることはない」と繰り返してください。そして、わたしたちはペトロと共に「思い煩いを何もかもあなたにお任せします。あなたがわたしたちのことを心にかけていてくださるからです」(参照1ペトロ5,7)

27 3月 2020, 19:50

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Respect for the Planet’s Resources

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Mission 2030 Prayer Intention: September 2020

With us are many persons who had to leave their country in search of a better future. We are called to receive them with maternal love, as brothers and sisters. Grant us Lord the courage, generosity, wisdom and insight necessary to help them.
 

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